
織田信長1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことにより、戦国時代の状況が一変します。
信長は義昭の名で四方の大名へ命令を発布することにより、天下人への道を歩み始めます。彼が入京して最初にしたことは大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたことです。
この頃になると、信長の動きに関連して各地方も統一へ動き始めます。
北条氏、武田氏、上杉氏、毛利氏などの有力な戦国武将の動きです。
これらの全国の大名は信長派か反信長派に分かれて争うことになります。将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山、本願寺、武田信玄、上杉謙信、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好三人衆、毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げましたが、各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京都を追われます。
幕府という形態はこの後、備後の鞆に細々と続きました。
続いて自らの利権を失うことを恐れた本願寺も信長に反発、全国の一向一揆を動員して10年間徹底的に抗戦しました。これが石山合戦です。
織田信長はこれらの敵対勢力をすべて撃ち破り、自らが本能寺の変で倒れる1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げました。
信長の後継者である豊臣秀吉は関白となり、征夷大将軍である足利義昭の官位を凌駕し惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一します。
更には太閤検地、刀狩、身分統制令、貨幣統一を達成して、これまで各地ばらばらであった日本の全てを一つにまとめる統治を確立しました。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して、諸大名の有無を言わさず配置換えを行い、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川氏一統が日本の実質的支配者とすることを諸大名に徹底確認させました。
一国一城令を行うことは「もう戦争はしない、幕府の権力に従う」という諸大名の意思表示でもありました。そして江戸時代中期、三代将軍徳川家光が死去した後、幕府の武断政治から文治政治への転換は、武力による支配の終焉ともいえます。
戦国武将の群雄割拠による、地域権力の乱立期から、ひとりの武将による「天下取り」、すなわち全国的な統治権力の掌握が完成し、単一な国家権力の確立とやがては成熟を迎える土台が完成したことで「戦国時代」は終焉します。
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