
この明応の政変とは、将軍である足利義材を追放して、清晃を将軍としたことでした。
これに対して足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義材派と足利義澄派(細川政元派)と分かれるようになりました。
細川政元も香西元長・薬師寺長忠らに暗殺され(1507年:永正の錯乱)、細川家もまた細川澄元、細川高国と二派に分かれて抗争を開始します。
この間隙を突いて1509年に周防国の大内義興が前将軍・足利義尹(元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京します。
高国は大内義興と組んで義尹を支持し、澄元は義澄を支持し対立します。1511年に足利義澄が死ぬと、澄元方が劣勢となり、澄元は何度か京と四国を往復しますが、結果的には権力を奪えず1520年に阿波で死んでしまいます。
その後の歴史年表上の推移としては、以下の通りです。
1521年 細川高国、足利義稙を追放し足利義晴(足利義澄の子)を将軍に迎える。
1526年 細川晴元(澄元の子)・足利義維を奉ずる柳本賢治と細川高国の戦いが始まる。
1531年 播磨の浦上村宗と細川高国が天王寺に戦死、細川晴元が政権を握る。
1543年 細川氏綱、高国跡目と称し細川晴元と戦う。
1547年 三好長慶、細川晴元から離反し氏綱方となる。
1548年 三好長慶、細川晴元・足利義晴を追放する。
1552年 三好長慶、足利義藤(足利義輝)と和す。
1564年 三好長慶死去。
1565年 足利義輝、三好三人衆に暗殺される。
1566年 三好三人衆と松永久秀が対立し、畿内各地で抗争。
1567年 足利義昭を奉じた織田信長が上洛。
以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏に移り、続いて三好氏が政権を握りました。細川氏は形式上は管領家で、執政権が存在しますが、細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはない大名でした。
ここに足利室町幕府の無力化は明確となりました。
実際、この前後から現代日本人が俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友宗麟、島津貴久などの華々しい活躍が始まり全国の戦国騒乱が本格化します。
三好長慶は京都周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放します。
しかし三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招いて、結局4年で足利義輝に屈服することとなります。三好長慶の死後は三好政権は迷走し、松永久秀・興福寺・浅井長政らの協力を取り付けた織田信長に簡単に京を明け渡すことになります。
足利幕府をめぐる権力抗争は終焉して、ひとりの戦国武将信長による天下統一の時代に入ります。
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