戦国時代 前期 応仁の乱 明応の政変

戦国時代前期:応仁の乱から明応の政変まで

室町幕府の足利義教が嘉吉の乱で死ぬと、幕府の統治力は急速に衰えました。

例えば、関東では鎌倉公方が古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こしたにもかかわらず、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかったとされます。
加賀でも大和でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発していました。
幕府権力は、治安維持さえできなくなっていました。

この最中に将軍の跡継ぎ争いが勃発し、これに山名氏・細川氏ら守護大名の権力争い・畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、内乱としての応仁の乱が起こりました。
大内氏、若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にしたこの争いは10年間続きました。
山名氏の衰微・大内ら西軍の京都撤退など細川氏が勝利した形で終焉しましたが、はっきりとした勝利の決着がつかないままに終焉したことで後々までに影響します。
戦中、細川氏が山名氏領国を混乱させるため武将を送り込んだために争いの火種が各地でくすぶり続けました。

戦後も中央政権としての幕府の存在は残って、かろうじての武力は持っていました。1487年の将軍に敵対する近江守護・六角高頼攻めには尾張国や若狭国など京都近辺の諸大名が従い、1492年の足利義材の河内攻めにも多くの軍勢が参加しています。

この河内攻め最中の1493年4月に管領・細川政元が将軍廃立のクーデターである明応政変に成功し、実権は細川氏に移りました。
将軍は各地の大名に身を寄せ頼る存在となりはてました。細川氏も政元死後、晴元と高国と二派に分裂して混迷を深めるようになります。
ここに中央政府の地方への求心力が失墜し、各地豪族は自ら力を蓄え、或いは力ある存在に身を寄せる、法なきアナーキー時代に入りました。

このような中で、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名と呼びます。

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